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東京高等裁判所 昭和37年(ツ)149号 判決 1963年10月05日

上告人 浅野延太郎

被上告人 中西豊次郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人は「原判決を全部破毀する」との判決を求め、その上告理由として、別紙上告理由書記載のとおり主張した。

上告代理人大島正義の上告理由第一点について、

本件記録編綴の委任状(記録第一二六丁)によれば、被上告人は第一審において弁護士菅野敏夫を訴訟代理人に委任していることが明かである。もつとも、右委任状には反訴の提起について特別に授権する旨の記載のないことが認められるが、被上告人が原審に提出した委任状(記録第一七二丁)によれば、被上告人は原審においても同弁護士を訴訟代理人に委任し、民事訴訟法第八十一条第二項所定の行為につき特別の授権をなしていることが認められる。しかも、本件記録によれば、原審においては、被上告人の第一審において提起した反訴請求について弁論をなしていることも認められる。そうだとすれば、被上告人は原審において、右代理人が第一審においてなした本件反訴の提起について追認をなしたものと解するを相当とする。それならば第一審および原審には所論のような訴訟手続の違背は存しないから、論旨は理由がない。

同第二点および同第三点について、

原判決の挙示する諸証拠によれば、原審が認定しているように、本件土地は被上告人が昭和二十年七月二十日上告人の先代浅野房吉から代金二千四百円(一坪六十円の割合)で買受け、その所有権を取得した事実を十分に認めることができる。原判決の記載によれば、論旨摘記のような疑念も生じる旨の判示がなされているがそれと共に右疑念を頭において各証拠をさらに検討してみたが、右疑念の存在は前記認定の事実を動かすには足りないと判示しているのであることは、判文上明かであるし、右各証拠を照し合わせて考究してみても、原審の認定判断は肯認できるし、その説明は一応なつとくができるものである。しかも右のような心証形成の経路は判決に書くことは法律上要求されていないところであるから、それを判示しなくとも判決に理由を付しない違法があるということはできない。また、原審が房吉は生前不動産の仲介業を営んでいたが、文盲に近く、せいぜいかなが書ける程度で取引関係の書類手形等の記載はほとんど知人の司法書士豊島音次郎か間借人伊豆川徳重に代筆して貰つていたこと、右のような書類には通常実印を押なつしており、有り合わせ印を使用したようなことはない、との事実を認定していることも所論のとおりであるが、右事実は必しも前記原判決の認定した事実とむじゆんするものではないから、原審が右事実の存在することは上記認定を動かすにはとうてい足りないと判断したのは相当であつて、その理由にそごはない。上告人の所論はすべて原審のなした証拠の取捨判断を非難し、ひいて事実の認定を非難攻撃するにすぎず、原判決には所論のような採証法則の違背、理由不備、理由そごの違法はないから論旨はいずれもその理由がない。

同第四点および同第五点について

甲第七号証は浅野房吉が昭和二十五年八月二十三日訴外中西彦次郎から、本件土地を含む数筆の土地を抵当物件として金十万円を借り受ける旨記載した借用金証書であるが、原審は、本件土地は被上告人が昭和二十年七月二十日に房吉から買受けたとの事実を認定したのであつて、右事実は原判決の挙示する各証拠によりこれを認めるに十分であるから、原審が右甲第七号証の記載およびその作成についての原審証人豊島音次郎の証言は、上記認定の妨げにはならないと判示したのは相当である。第一審証人佐藤まさの証言および原審での上告人本人尋問の結果についても、原審はこれを信用しなかつたものであることも原判決の記載によつて明かであり、証言もしくは当事者本人尋問の結果を信用しない理由を一々判示しなければならないものではないから、原判決には所論のような証拠を排斥するについての理由不備はないものといわなければならない。また本件記録を精査するも、原審の採用した証拠が悉く矛盾して虚偽ねつ造であると認めることができないばかりでなく、採用した証拠についてその理由を一々判文上明かにしなければならないものではないから、原判決には所論のような採証法則の違背も存しない。論旨はいずれも理由がない。

同第六点について。

原判決の挙示する証拠によれば、原判示のように、房吉は被上告人が本件土地上に本件建物を建築所有している事実を、その建築当初から知りながら、死亡するまで、これについて、被上告人に対しなんらの異議を述べていない事実を認め得られないものではないから、原判決には所論のような虚無の証拠に基いて事実を認定した違法はない。その他の論旨は原審の専権に属する事実の認定を非難攻撃するにすぎず、原判決には所論のような審理不尽ないし採証法則の違背はないから、理由がない。

同第七点について、

原判決が、本件土地は被上告人が昭和二十年七月二十日上告人の先代浅野房吉から買受けた事実を、適法に確定していることは前記論旨に対して判示したとおりであつて、右事実を確定するについては、右売買に因る所有権移転登記手続を経たことまでも判断しなければならないものではないから、原判決には所論のような判断遺脱の違法がなく、論旨は理由がない。

よつて、本件上告は理由がないから民事訴訟法第四百一条によりこれを棄却することとし、上告費用の負担については、同法第九十五条第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 村松俊夫 伊藤顕信 杉山孝)

別紙 上告理由書

第一点

民事訴訟法第八十条は、「訴訟代理ノ権限ハ書面ヲ以テ之ヲ証スルコトヲ要ス、前項ノ書面カ私文書ナルトキハ裁判所ハ当該吏員ノ認証ヲ受クヘキ旨ヲ訴訟代理人ニ命スルコトヲ得、前二項ノ規定ハ当事者カ口頭ヲ以テ訴訟代理人ヲ選任シ裁判所書記カ調書ニ其ノ陳述ヲ記載シタル場合ニハ之ヲ適用セス」と規定している。これは訴訟代理権の存否についてのちに問題がおこり、訴訟行為の効力が左右されるようになることを防ぐために、訴訟代理権の存否、範囲は書面で明確にすることとし、たとい実際に権限を与えても右法条に適合しない場合には権限ないものとして画一的に取扱かおうとする趣旨である。

本件記録を精査するに、弁護士菅野敏夫は昭和三十五年十二月十六日附第一審反訴状に始めて反訴原告訴訟代理人として記載し、爾来訴訟行為を行い、第一審判決にも、「被告(反訴原告)中西豊次郎右訴訟代理人弁護士菅野敏夫」と記載せられ、弁護士菅野敏夫は第一審において被上告人の訴訟代理人として総ての訴訟行為をなしたる形跡があるけれども、記録中該弁護士が被上告人の委任を受け適法に被上告人のため訴訟行為をなし得べき資格があつたことを証明するに足るべき書面いわゆる訴訟代理委任状と認められるべき書面が存していない。そもそも訴訟委任は記録に添付すべき書面をもつてするの外これを証することができないことは民事訴訟法第八〇条の規定によつて明めて明白であるから、かゝる書面の存在しない以上は菅野弁護士のなした訴訟行為を判断の基礎となした第一審判決は訴訟手続に違背した不法があり、破棄を免れざるものと信ずる。(昭和二四年一〇月二二日東地民二判昭和二四年(ワ)二七一七号下級民特報一四八頁、大審院大正七年(オ)二三五号、同年一〇月一五日民一判、新聞一四八八号二二頁御参照)

第二点

原判決はその理由に、「本訴、反訴を通じ、本件土地がもと控訴人の先代訴外浅野房吉の所有であつたこと、本件土地上に被控訴人が本件建物を建築所有して該土地を占有していること、控訴人主張の日に同訴外人は死亡し、控訴人が単独でその相続をしたことはいずれも当事者間に争いがない。そして本件において本訴反訴を通じ主要な争点は被控訴人が訴外房吉から本件土地を買い受けたかどうかの一点に帰するので本訴反訴とも一括して判断を進める。成立に争いのない甲第三号証の一、二、原審証人中西政吉の証言及び当審における被控訴人本人尋問の結果によりその成立を認め得る乙第一号証に原審証人中西政吉、望月福太郎、佐藤岩吉、志田伊勢吉、佐野久次郎、佐藤まさ(一部)の各証言及び当審における被控訴人本人尋問の結果を総合すると、以下のとおり認められる。(一)被控訴人は太平洋戦争末期の昭和二〇年七月頃、その居宅が附近一帯の民家とともに近くにある蒲原町役場を空襲による被害から防衛するために強制疎開を命ぜられそうな情勢にあつたので、とりあえずその移転先を物色していた折柄、親戚の訴外志田松太郎が小作していた本件土地を、所有者である訴外浅野房吉が売りたいと言つているということを聞知し、訴外志田松太郎や被控訴人の兄の訴外中西政吉の協力を得て、訴外浅野房吉と本件土地の売買について交渉したこと。(二)その結果同月二〇日被控訴人方において前記訴外松太郎及び政吉の立会のもとに、訴外房吉は被控訴人に本件土地を代金二、四〇〇円(一坪六〇円の割合)で売り渡す旨の売買契約が成立し、被控訴人はその場で右代金の内金二、〇〇〇円を支払い、残金四〇〇円は数日後被控訴人の代理として訴外政吉が訴外房吉を訪ねて支払つたこと。(三)そのさい訴外政吉は訴外房吉に売渡証書及び権利証の交付を要求したところ、訴外房吉は売渡証書として半紙大の日本紙に、「うりわたし言々あさのふさきち」と毛筆で書きその名下に「浅野」という有り合わせ印を押なつした書面(乙第一号証)を交付したが権利証は手許にないと言つて交付しなかつたこと。(四)そして被控訴人はそのころ本件土地の引渡を受けたが、間もなく終戦となり疎開の必要もなくなつたので、しばらく本件土地に野菜を作つたり、豚小屋を設けたりした後、昭和二七年頃に至り、その地上に別紙第二物件目録記載の建物を建築したこと。(五)ところで本件土地の所有権移転登記については、売買契約のさいはいずれ後日するということではつきりした定めはないまま終戦前後の世相の混乱の中でのびのびになつていたが、終戦後しばらくして被控訴人が訴外房吉に右登記手続をすることを求めたところ、訴外房吉はいかなる心境の変化からか、これをこばみ、その後被控訴人は自身ないし第三者を介してしばしば登記手続をすることを求めたが同訴外人はこれに応じなかつたこと。(六)しかし訴外房吉は被控訴人が本件土地上に本件建物を建築所有している事実を、その建築当初から知りながら、死亡するまでこれについて、被控訴人に対しなんら異議を述べていないこと。以上の事実が認められる。

成立に争いのない甲第四号証の一、第六号証、第八号証の一、第二五号証の一、公文書の部分は成立に争いがなく、その余の部分は弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第五号証、当審証人豊島音次郎の証言及び当審における控訴人本人尋問の結果によつて成立を認める同第七号証の各記載は以上の認定をする妨げとならず、また原審証人佐藤まさの証言の一部原審及び当審証人佐野源太郎の証言、当審における証人浅野いちの証言及び控訴人本人尋問の結果は措信できず。他に右認定を動かすに足りる証拠はない。もつとも右控訴人本人尋問の結果により成立を認める甲第一〇号証、第一一号証の一、ないし三、当審証人豊島音次郎の証言及び右控訴人本人尋問の結果により成立を認める同第七号証、第一二号証の一、ないし一三、第一三ないし第二二号証、右豊島証言及び証人伊豆川徳重の証言により訴外房吉の印鑑であることが認められる同第二四号証の一、ないし三、右豊島、伊豆川両証言、証人浅野いちの証言及び右控訴人本人尋問の結果を合わせると訴外亡房吉は、生前不動産取引の仲介業を営んでいたこと、しかし文盲に近く、せいぜいかなが書けるていどで取引関係の書類、手形等の記載はほとんど知人の司法書士の訴外豊島音次郎や間借人の訴外伊豆川徳重に代筆してもらつていたこと、なお右のような書類には通常実印を押なつしており、有り合わせ印を使用したようなことはないことが認められる。右認定の事実に徴すると、不動産取引の仲介業者としてその取引関係の書類の作成について一応の知識をもつていたと考えられ、かつその作成については通常自書したり有り合わせ印を押なつしたりしたことのない訴外房吉が何故乙第一号証の如き、およそ売渡証書として形式、内容ともに稚拙きわまる書類を自書し、有り合わせ印を押なつして作成したのか、また何故被控訴人に権利証を交付しなかつたのか、何故所有権移転登記手続をすることをしつようにこばんだのか等の疑念も生ずるのであつて、しかも訴外房吉がすでに死亡している本件においては、右の疑念についてなつとくのいく解明を与え得る証拠は存在しないのである。しかし前述のとおり被控訴人が訴外房吉から本件土地を買い受けた事実は、その認定資料として各証拠を総合して優にこれを認め得るのであつて、右の疑念の存在は右認定事実を動かすにはとうてい足りないというべきである。以上のとおりであるから本件土地の所有権は昭和二〇年七月二〇日売買により訴外浅野房吉から被控訴人に移転したものというべきである。」というのである。

しかしながら右はまことに牽強附会な判決であることが明白である。まづ第一に原判決が一部認定しているように、訴外浅野房吉は永年にわたつて不動産取引の仲介業者としてその取引や取引関係の書類の作成について一応の知識をもつていたことは想像するに難くない。しかしながら幼少の折学問をしていなかつたので、頭脳はきわめて鋭敏で感の強い人であつたが、文盲に等しく甲第十号証、甲第十一号証の一ないし三にあるように鉛筆書でどうやら判読できるていどに書きあらわすことのできるほどで、毛筆などでは絶対書くことのできない人であつた。そこで取引関係の書類、手形等の記載はほとんど知人の司法書士の訴外豊島音次郎や間借人の訴外伊豆川徳重に代筆してもらつて居て、なお、右のような書類には通常実印(甲第二四号証の一ないし三)を押なつしていたものであつて有り合わせ印を使用したようなことは絶対にない人であつたことは原審証人豊島音次郎、同伊豆川徳重、同浅野いち、第一審証人佐藤まさ、同佐野源太郎の各証言並びに原審における上告人本人尋問の結果及び甲第十号証、同第十一号証の一ないし三、同第十二号証の一ないし一三、同第十三号証ないし同第二十三号証等によつてもきわめて明白である。果して然らば、自分の本件不動産を被上告人に売却するときに当つても売渡証を必要とすれば、例によつて友人の司法書士豊島音次郎あるいは間借人の伊豆川徳重に代書を依頼する余裕は十二分にあつた筈であるのに、この時に限つて何故乙第一号のごときおよそ売渡証書として形式、内容ともに稚拙きわまる書類を自書し、有り合わせ印を押なつして作成したのか、また何故、被上告人に権利証を交付しなかつたのか、何故所有権移転登記手続することをしつようにこばんだのか、この点について原判決は理由を附してこれを明らかにしなければならないにもかゝわらず、これに理由を附せずして単に疑念としているに過ぎないのは明らかに民事訴訟法第三九五条第一項第六号前段の規定に違背する違法あるを免れないものである。

第三点

原判決はその理由中被上告人が本件土地を買受ける理由として、(一)ないし(六)の事実を認定しているにかゝわらず、「もつとも右控訴人本人尋問の結果により成立を認める甲第一〇号証、第一一号証の一ないし三、当審証人本人尋問の結果により成立を認める同第七号証、第一二号証の一ないし一三、第一四ないし第二二号証右豊島証言及び証人伊豆川徳重の証言により訴外房吉の印鑑であることが認められる同第二四号証の一ないし三、右豊島、伊豆川両証言、証人浅野いちの証言及び右控訴人本人尋問の結果を合わせると、訴外亡房吉は、生前不動産取引の仲介業を営んでいたこと、しかし文盲に近くせいぜいかなが書けるていどで、取引関係の書類、手形等の記載はほとんで知人の司法書士の訴外豊島音次郎や間借人の訴外伊豆川徳重に代筆してもらつていたこと、なお右のような書類には通常実印を押なつしており、有り合わせ印を使用したようなことはないことが認められると判示している。しからば本件に限つて何故売渡証を自書したか、何故有り合わせ印を使用したかにつき理由を附さない違法があるのみならず、前後の理由に齟齬ありかつ採証の方則に違背した違法がある。

第四点

甲第七号証によれば、訴外浅野房吉は昭和二十五年八月二十三日他の所有不動産と共に本件不動産を共同担保として訴外中西彦次郎より金十万円を借用すべく借用金証書を訴外豊次郎に依頼して作成し、六十円の印紙を貼用して所持の実印(甲第二四号証の一)を押なつして登記手続をなすまで完成している。原審証人豊島音次郎、上告人本人尋問の結果をこれと綜合して考えて見ると、本件不動産は昭和二〇年七月二〇日頃これを被上告人に対して売却した事実のないことは寸毫も疑いを容れる余地がない。加うるに第一審証人佐藤まさが、「あの土地を父房吉が中西さんに売つたということは聞いていません、生前父は自分が求めた土地は売らないと言つておりました。」と証言している事実によつて更にその不売の事実を裏書立証している。果して然らばかゝる物的及び人的に確実な証拠があるにかゝわらず、これを排斥して訴外亡房吉が本件不動産を被上告人に対して売却したものと認定するには、これを排斥するについて相当の理由を附して明らかにしなければならないにもかゝわらず、これをなさない原判決は理由不備の違法あるのみならず、本件の勝敗を左右する最も重要な証拠を看過した違法あり破棄せらるべきものと信ずる。

第五点

原審における被上告人本人尋問の結果によると同人は、

「あなたは当時浅野房吉の本件土地が買えそうだという事をどうして分つたのですか。

私は右のように強制疎開に会い、行く処がないので疎開する場所を探していたら、浅野房吉が本件土地を売りにかけているという事を当時本件土地を小作していた志田松太郎より聞いたのです。

志田松太郎とあなたとの関係はどのような関係ですか。

私の家内と志田松太郎とは叔父、姪の関係になります。前にも申したように志田が本件土地を小作していましたがお前が本件土地を買うならば俺が退いてやるという事を言つていました。

その話は何時したのですか。

昭和二〇年七月二〇日です。

それは中西重男の家で浅野房吉と志田松太郎と兄の中西正吉(政吉の誤りと思う)と私の四人で私合をしましたが、此の時は私が強制疎開で困つているから本件土地を売つて貰い度いという事で、私が買うなら小作をしていた志田が本件土地を退くというので売買の話が決まり私は此の時売買代金中二、〇〇〇円を払いました。

本件土地代金の二、四〇〇円はあなたの方で言つたのですか、先方より言つて来たのですか。

先方で二、四〇〇円で買つてくれと言つて来たのです。

本件土地売買の交渉の経過はどうだつたんですか。

本件土地の売買について浅野はその土地の上にトタン屋根の二間、三間の小屋があつたがそれをつぶしたものがそのまゝ置いてあるから、それをも合わせて二、四〇〇円で買つてくれと言つていました。

ですが私は二、四〇〇円では高いと思い、二、〇〇〇円で買う積りでしたが、当時は強制疎開に会つていて高い安いと言つているどころではなかつたのでとりあえず二、〇〇〇円を払いました。

(中略)

あなたの住んでいる家で先程言つた四人で私合をしたのは何時ですか。

七月二〇日の午後です。

私はその時すぐ二、〇〇〇円を払つてその場ですぐ本件土地へ葱をこぎに行つたのです。

志田が葱をこいであなたの本件土地を明渡すという事は浅野房吉へも知らせたのですか。

はいそうです。

それから四日位経つて浅野房吉が残金の四〇〇円を取りに来ましたので私の兄の中西正吉(政吉の誤り)が右四〇〇円を立替えて払つてくれました。

そして中西正吉がこれを(乙第一号証)を持つて来ましたので私はこんなものではしようがないではないかと言いましたら中西正吉はあの人(浅野房吉)はこれしか書けない人だという事を言つていました。

あなたはその時登記について請求しましたか。

しました。

そしたら浅野は今はそれどころではないではないか、俺が信用出来ないのかと言つていました、そしてそのまゝです。

(中略)

右登記請求についてあなたは人を通じて請求をしたことがありますか。

望月や大野を通じて頼んだ事がありますが登記はやつてくれませんでした。

(中略)

それでは右売買の話は何時決つたのですか。

右売買の話は七月一〇日最初ありましたその日は浅野房吉が私の住んでいる家へ来て私の叔父の志田松太郎が本件土地の小作をしている関係で売れないから何とか買つてくれと言つて来ました。そして中西正吉が私に買つておけと言うので買う事にしたのです。

それから同月一二日に浅野房吉が又来て本件土地を二、四〇〇円で買つてくれと言つて来ましたが、私は高いと思つたので、二、〇〇〇円にまけろと言いましたが、浅野は右土地には二間三間の家の毀したのがそのまゝ置いてあるからそれも合せて二、四〇〇円で買つてくれと言う事でした。そして二〇日に二、〇〇〇円を浅野に払つて二〇日に右売買の話が決つたのです。

その代金はあなたが払つたのですか。

二、〇〇〇円は私の金を払いました。四〇〇円は二四、五日頃私の兄の中西正吉が立替えて払いました。

あなたは四〇〇円を中西正吉が払つた時領収証の事は言つたが土地の権利証は何故受取らなかつたのですか。

当時は戦時中で先方では今のさわぎでは何をしても出来ないからと言う事で貰いませんでした。

あなたは大切な権利証を何故渡して貰わなかつたのですか。

兄の中西正吉が領収証だけで一時がまんしてろと言うのでそのまゝになりました。

(中略)

本件土地売買の時は地上はどのようでしたか。

右地上には何もありませんでした。」とある。

これに対して第一審証人中西政吉の証言中には、

「その土地は浅野房吉から代金はいくらで買いましたか。

坪六〇円で四〇坪買いました。

契約書を作りましたか。

作りました。この時は私が金を持つて行きました。豊次郎は当時私のすぐ下の弟がやつていた製材の手伝をしていたので十分な金の持合せがなく二千四百円の代金に対して本人が持つて来たのはそれに四、五百円足りませんでしたので、私が補充してそれだけ持つて行きました、房吉という人は高利貸をしていたので相当の字は書けると思い金を渡して売渡し証書を貰いたいと言つたら、忙しいとか俺は書けないとか言つてにげておりました。

(中略)

それで登記は何時する約束でしたか。

後で登記するという程度の約束でした。」とある。

又第一審証人望月福太郎の証言中には、

「中西豊次郎さんはこの土地を買受けて何ういうわけでその登記をしなかつたのですか、

私は食糧調整委員が農地委員に変つた戦後もずつとその職にあります。

戦後間もなく農地委員をしている関係から中西豊次郎が農地を買つたについてそれを宅地に登記したいが何うだろうかと私のところに相談に見えられたのです。

当時は農地の売買は出来ないことになつており、みかんの木さえ切つてさつまいもを作れという食糧増産の時代でしたので、二、三日そうした相談に見えましたがそんなわけでそれはとても駄目だとうつちやらかしておいたのです。

(中略)

浅野房吉さんから中西豊次郎さんの家の建つているところを買つたという話を聞いたと言いますがそれは何時頃ですか。

それは昭和二三年頃です。

志田松太郎さんに会つて土地のことについて話合つたことがありますか。

あります。それは中西豊次郎さんが現在の家を建つ前です。あんたは豚を飼うのをやめたではないかと言つたら、あれが家を建てるから仕方がないやと言いました。」とある。

又乙第二号証の一、二、によると被上告人が居住していた中西重男の家屋は昭和二十年八月強制疎開の為建物の大部分を取毀した旨証明しているけれども、第一審証人望月福太郎の証言によると、

「中西重男さんの家は何の程度こわしましたか、

東側と前のはめをはずしただけです。」とある。(乙第二号証の二を証明した人)

これらを対照して精査すると原審判決理由に被上告人の有利に採用している証拠は悉く矛盾して虚偽捏造したものであることが明白である。しかるにもかゝわらずこれを被上告人の有利な証拠として採用するについては判決に理由を附して明らかにしなければならないにもかゝわらず、原判決はこのことなくして漫然判決しているのは明らかに手続上の過誤により採証法則に違背した違法がある。

第六点

訴外亡浅野房吉が不動産取引の仲介業者としてその取引や取引関係の書類の作成について一応の知識をもつていたことは原審判決もまたこれを認定しているところである。したがつて第一審証人中西政吉の証言のように売渡証書を亡房吉に対して強く請求して書かせたとしても、売渡証を書くに当つてはたとえ自書は拙劣であつたとしても、職務上永年にわたつて取扱つて来た書類に見習つて土地の売渡証としての形式を整えて書くのが常識である。又印も職務上取扱つてわかつている実印を押なつするのが常識である。しかるに乙第一号証は全く土地の売渡証書としての形式、内容ともに証書と認められず、月附もなければ宛名もなく、かつまた何物の売渡しかも判明しない。しかもその上常識をもつて到底判断することのできない有り合わせの印を押なつしてある点、しかもいまだ書くことのできない、又書いたことのない毛筆で書いてある等の点からこれを考察すると、かつて亡房吉の文盲を知つている何人かの手によつて偽造されたものであることが明らかである。しかのみならず権利証の交付をしなかつた事、所有権移転登記手続をすることをしつようにこばんだ事、その後昭和二十五年八月二十三日に至り甲第七号証にあるように、本件土地を他の不動産と共に共同担保として金借をしようとした事実等に徴すれば本件土地を被上告人に対して売買した事実のないこと一点の疑いもない。更に第一審証人中西政吉の証言のように、亡房吉が高利貸であつたとすれば、死亡するに至るまで移転登記手続をなさずして本件不動産の固定資産税を黙して納税するわけがない、この点を総合して考察すれば更に一層乙第一号証が本件土地の売渡証であるとすれば、何人かの偽造にかゝるものであつて、亡房吉は本件不動産を被上告人に売却したものでないこと極めて明白である。原審判決は、「訴外房吉は被控訴人が本件土地上に本件建物を建築所有している事実を、その建築当初から知りながら死亡するまでこれについて被上告人に対してなんら異議を述べていない」旨判示しているけれども、一件記録中には亡房吉が本件土地上に被上告人が本件建物を建築所有している事実を、その建築当初から知りながら、死亡するまでこれについて被上告人に対してなんら異議を述べなかつたと認むべき証拠は全然ない。果してしからば原審判決は虚無の証拠に基いて事実を認定した違法あるのみならず、審理不尽によつて採証方則に違背して事実を誤認した違法あるを免れないものである。

第七点

被上告人並びに第一審証人中西政吉、同望月福太郎等の証言に依れば、亡浅野房吉は権利証を交付せず、かつ所有権移転登記手続することをしつようにこばんだ旨証言しているけれども終戦前後においては食糧増産の意味で一時農地を宅地に変更することを許されなかつたこともあるけれども、真実被上告人が買受けたものとすれば、当時小作人の訴外志田松太郎が承認しているから農地として亡浅野房吉から被上告人に対して売買による所有権移転登記手続は優にできた筈である。又仮りに権利証が無かつたとしても保証書によつて登記手続は容易にできた筈である。しかるに被上告人がこれら容易にでき得る手続をあえて取らなかつたということはその反面真実亡浅野房吉から本件土地を買受けたものでなく、小作人の訴外志田松太郎が親類の間柄にあつたのを奇貨としてこれらの者達が共謀上本件土地を買受けた如く作為し、でつち上げたものであることが容易に推知せらるる。しかるに原審判決はこの事実を確定する手続に違法があつて、争点につき判断を遺脱した違法あるを免れない破棄せらるべきものと信ずる。

右のとおり上告理由申し立てます。

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